Episode08:ウェイト&パメラ始動


「ウェイト博士の身の上にそんなことが......」

もはやことばを失いながら聞き入っていたパメラは、それだけつぶやくのが精一杯だった。

 居間に通されたときにふと目に入ったマントルピースの傷あと、あれはもしかすると彼がつけたものなのか......そして彼が窓越しに遠目に見ている2人の女性、つまりは彼の妻子、エイダとシビルが談笑しながら庭の花だんに手を入れたりなどしているわけなのだが.....今はただ普通に見えるあの女性たちが、人生の闇とも言える痛々しい過去の持ち主であり――このウェイトが事の元凶とは。

 小一時間ほど前の過去をパメラは回想する―― 

 典型的な英国紳士――ノリのきいた真っ白いワイシャツに細身のタイを結び、ウェーブを主張させながらまとめてある栗色の髪も口ひげも長すぎず短すぎず、きれいに切りそろえているウェイトと、いっしょにパメラを迎え入れてくれた彼の妻、エイダもまた、彼に似つかわしい、従順で愛らしい英国淑女のイメージだった――一糸乱れることなく結い上げた髪、上半身はスレンダーながら、くびれたウェストの下は豊かにふくらみ、動くたびにドレスのすそをゆるがす――この人の中で、ヴィクトリア時代はまだ終わっていないのかしら? ひと世代後に生まれた女性として生まれてこの方、コルセットなど無用の長物でしかなかったパメラは負の興味を覚えたものだった。

  2人分の紅茶を入れながら、「今、娘が里帰りしていましてね......」と嬉しそうに目じりにしわをよせるエイダの全身や横顔をチラチラと盗み観ながら、きっと自分に似合うものとか、より美しく見せるアイテムを知っている人なんでしょうと、パメラはため息まじりに、自分の羽飾り付きのヘアバンドに瞳を動かす――こういう人に、私の頭の羽飾りなんてものはどう映ってるのかしら? よく言えばフォークロア調、さもなくばアバンギャルドだとかぐらいは言ってはくれるのかしら?.

  ちょっと庭に出てきますとエイダがウェイトの肩に触れれば、「ああ、行っておいで」とほほにやさしくキスして送り出すウェイト――絵に描いたような幸せに満ちたりた家庭人たちだこと――思わずそこで口に出しそうになっていた自分を省みて、パメラは今改めて胸をなでおろしている――って、あらいやだ、私ってば、まるで人の不幸の身の上にホッとしているみたいじゃない......!

 パメラのフラッシュバックなどよそにウェイトは話し続ける。

「娘は来月ウェディングです......それからまた5か月もすれば、私はもう『おじいちゃん』ですよ」

「まあ!」目も口も思わず開きっぱなしになるパメラ 。

「お話した通り、妻とは契約結婚ですから......娘が独り立ちするまでという。いよいよ、お役御免を言い渡されるかという……私は崖っぷちというわけです」

「何と言いましょう、おめでとうございますと、ただストレートに言うのもはばかられますが......」パメラが若干困惑を見せると、ウェイトは屈託なく笑うのだった。

「いや、めでたい、めでたいことです。私が散々な目に遭わせてしまったというのに、それでも娘は少しずつ、生きることに希望を見出せるようになり、愛を育み、子宝に恵まれるまでになってくれました」

「お嬢さんとはすっかり和解されたのですね?」と聞かれたことには、ウェイトはしゅんともの悲しさをかくさずに返していた。「娘は妻とは、完全に和解を果たしたようですがね......私に対するわだかまりが薄れることは、この先もうないのかもしれません」

「そうでしたか――お母さんとは女同士のよしみでよりわかり合えたとか、そんなところなのかもしれませんね」

 気休めのことばかもしれないが、彼女なりに愛を乗せて伝えようとする様子に、また笑みを取り戻したウェイトは 、すでにこの長きに渡った自分の身の上話に、ただ一心に耳を傾けていたパメラに対して、あとはもう本題を投げかけるのみと心を決めていた。

「我が子に、自由に人生の旅を、冒険を楽しみなさいと、ただそれだけのことすら言えずにいた......何でもいいから、好きなことを、やりたいことを見つけて、自由に遊びまわっているだけで、子どもなんてものはただそれだけでいいはずなのに――私は親としてはもうダメな、最低な、それこそ愚かな人間でした」

「難しい、ことですよね......口で言うのはカンタンですけど」

「『魂の命ずるがままに』という感覚が、重要でしょう。それを教えてくれるのが、タロット の『 愚者』 、すなわち魂の擬人像です」

 そもそもタロットの作画の依頼を受けて今日はここに呼ばれて来ているのだと、パメラの描き屋魂が反応していた。タロットの中に『愚者』なる札が存在していることぐらい、知っているわ――いや、それしか知らないと、ここでは言われてしまうのかしら? いずれにしても、仕事は仕事。

「――ソウルを描け、ということですね?」

 ウェイトはうなずき、目の前の2つのティーカップが空になっているのを確認すると立ち上がった。「ではどうぞ、私の書斎へ......」

 言われて立ち上がりざまにパメラが窓の外に目をやると、庭先で花切バサミを手に、立ち尽くしている長い髪の乙女が――シビルと目が合った。線が細く、やや蒼白した表情には笑みもなく、ただ見つめられて一瞬動揺するも、ウェイトがどんどん歩いていってしまうので、パメラはシビルから視線を離すしかなかった。

 書斎に入るや、ウェイトがあちこちから引っ張り出してくる書籍やら資料やらが書斎机や小さなテーブルに所狭しと広げられる様を 、パメラは立ちすくんだまま見守っている。

「こちらが『愚者』の原型であろう中世期に作られたマンテーニャのタロッキの『貧民』です。マンテーニャのデッキは総数50枚で、その中で序列においてその最下位の札とされているのがこれです。勤め先の図書館で調べた資料の一部です」とウェイトが色あせた印刷物をパメラに手渡す。


下)大英博物館のマニュスクリプト 

上)マンテーニャ・タロッキの「貧民」   

左がイタリア、パヴィアの原版     右がイギリス大英博物館所蔵の複製 いわゆるがん作


「マニュスクリプト……大英博物館のですね?」

「ええ、今度いっしょに図書館に行って実物を観ておきましょう......とは言え、あれはがん作ですが。原版は、イタリアのパヴィアに所蔵されています。この英国国立博物館のものはハンス・ランデスペルダーのがん作です」

「ハ、ハンス......?」

「いや、がん作についてはここでは結構。こちらが、もう少し進んだ近世、1700年代中期のフランスはマルセイユの『愚者』です」


「それからこちらがスイスのタロット研究家、オスワルド・ヴィルト/Joseph Paul Oswald Wirthの作品です」と次々に書棚からタロットデッキを取り出しては、中から一枚の絵札を選んでパメラに手渡すウェイト。

「それからこちらがフランスのジェラルド・ヴィンセント・アンコース・パピュ(Gérard Anaclet Vincent Encausse Papus)というのがおるのですが、彼の作品です」

「ジェ......なんですって?」あたふたと今度はペンとメモをハンドバッグから取り出すパメラ。

「パピュ、それで十分通じます。パピュ書は、タロットの研究所としての完成度が高いものですから、参考書籍として一冊お持ちください」と渡された本を受け取ると、パメラは忙しくメモ用紙を小脇にかかえ、パラパラと書籍をめくりだす。.

「わお、これが名高いThe Tarot of the Bohemians!(ボヘミアアン・タロット)!  博士の翻訳作品ですか、刊行されたのが確か……」

「1892年、シビルが小学校に入学した年です」

「そのお嬢さんがご結婚とは……感慨深いですね! 『愚者』については、なるほどこの2枚が参考図版に上がっているわけですね……いわゆる道化のような、物乞いのような、品位としては下の下ってイメージですね」


「品位という観点は重要かもしれませんね、タロットには王侯貴族も登場します。がしかし、そういった階層によって札の優劣が決まるものでもありません。もともとタロットには、タイトルもなければ、札番号もありませんでした。マルセイユ・タロットの配列はあくまでもパピュをはじめとする近世時代のオカルティストたちが支持した伝統と言ってしまってよいでしょう......正しい配列というものなど、ありはしなかったのです」

 パメラはうなずき、目で追っていた書籍のパラグラフを音読してみる。「……破れた服を着て肩に棒を抱えて見るからに不注意そうにしている男が、足を噛む犬にさえ気づかないまま静かに道を進んでいる。彼は自分がどこに向かっているのか見ていないので、ワニが彼をむさぼり食うのを待っている絶壁に向かって歩くのみ......あらホント、ワニがいるわ、一体どういうシチュエーションなのかしら!」

「古代エジプトの『死者の書』がモティーフであるとされていましてね、そこに は、エジプト人が死後、行き先が天国か地獄かに決まる魂の裁量について記されています。天国という永遠のパラダイスが『世界』という最終札です。さもなくば『愚者』となってもう一巡下界の、地上の旅に出ることを余儀なくされる......それならまだましで、もし審判で「ウソ」をつこうものなら……」

「ワニに喰われ て地獄落ち!」

「そう、よくご存じで。 だからタロットの配列で最後の三枚の並びは、『審判』と『世界』の間に『愚者』を置くというのがひとつの定説なのです」

「なるほど……神秘的ですわ!」

「そこがどうも、いかんと、わたしは思っているのです」

「……いけませんか?」

「地上の旅というものが、まるで罪人に課される厳罰のようでは......私たちが浮かばれんでしょう。だって、私たちは皆この大地に足をつけて生きているのですよ。この地上を肯定せなんだ、誰が生きていく上での希望を見出せるだろうかね?」

「ええ、まあ...この地上が地獄だとは、思いたくない......いや、思う必要なんてありませんわ」

 明確にキッパリ言い切るパメラに、ウェイトの語気も軽快になる。

「そうでしょう、私たちの魂が旅するこの地上を、もっと私たちに近いイメージで、あなたには描いていただけないだろうか! 旅人はもっともっと 無邪気で、純粋無垢な子どもの姿でよかろうかとさえ、私は思っていてね。お気楽な放蕩息子で十分だと......いや欲を言えば、その、やはり私のシビルの子を...... 」

「タ、タロットの作画の指示としては、かなり個人的なご要望に聞こえますわね......」 

「わたしにとっては孫にあたるその子ですがね、いやあ、子どもなんてものはどこの誰の子だろうがみんなみんな、 いっしょだ。皆その子どもの魂をもってこの世に生まれ出る……誰もが幼い子どもだったのです。そういう子どもの魂をですね、描いていただけないだろうか? 老若男女に親しまれる童話がいい、童話の主人公のように、愛らしく」

「やはり、男の子でしょうか?」

「お任せしよう――」と言って、パメラにグンと近づいたかと思うとウェイトは彼女の上腕に両手をかけていた。「私はタロットの改変を行うつもりで、この仕事に取り組んでいるのですよ、従来のタロットの絵柄とはことごくかけ離れた図柄を、あなたには依頼するつもりで――」

「OK――了解です、わかりました! ウェイト博士、手を......」

「ああこれは、すまない」

「摘み立てのラズベリーはいかが......?」ノックの音がしてドアが開くと、エイダがトレイを手にして現れるものだから、パメラは仰天してウェイトから身体を引き離した。

「あらあら、パメラさん、大丈夫? また主人が何か無理なお願いでも......?」

「確かに、お願いとしては難しいことを......なんでも生まれてくるご予定のお孫さんを タロットの絵に描いて欲しいとか......」とパメラはここで妙な勘違いをされては困るとまくし立てるが、ウェイトはいたって落ち着き払った様子で腕組みなどしては2人を前に話し続ける。

「そう、単刀直入に言えばそうだ......シビルの結婚祝いには、あれが突然結婚すると家を出ていってしまったものだから、何も特別なことをしてやることができなかったが、せめて今度は生まれてくる子にプレゼントできるなら、わたしはもう本望だ。どんな子が生まれるかわからんが......この世に生まれたことを、人生を与えられたことを、いやそんなことなど理解できない赤子の魂のままにだね、この世の冒険に乗り出す若人の絵柄を、あなたには描いていただきたい......パメラ君、あなたのその感性で」

「よろしいことじゃあありませんか、ぜひぜひ、私からもお願いしますわ! 」

 エイダははしゃいで見せる一方で、「よろしければ、これうちの初物ですの......」洗い立てのしずくが光るラズベリーと、水差しやらグラスやらをテーブルにセットすると、ではごゆっくりとあっさり部屋から下がって行くのだった。 

「……奥様のご意見はうかがわなくよろしいのですか?」

「一応、これは私の仕事ですからね、遊びじゃない。エイダにはタロットの絵柄について何の知識も、興味もありはしないのです」

 冷静な面持ちの動作でウェイトに進められるままに、パメラはイスに腰掛け、ラズベリーを横目におもむろに切り出した――この打ち合わせの結果がどうなるのかさえもわからないまま足を運んできたものだが、どうやら私の仕事であることには間違いなさそう……曲がりなりにも仕事なら、金銭のことは明確にしておかねば。

「取り組む前にですね、ウェイト博士……この仕事は、いわばお友だち価格……安価に引き受けておりますので、修正がきかないということを、ご理解ください。ラフ(下書き) を一回提出、修正はそこで一回きりです。二回目以降は追加料金が発生します、ご承知いただけますか?」

「無論です、金銭的なゆとりがなく、すまない気持ちでいっぱいですが……破格でうけおってくださることにはただもう感謝です。度々修正を依頼してあなたをわずらわせることはありません」

「そうしまして必ず、すべての絵に私の署名を入れる条件で問題ございませんね? また作画について二次使用、流用、転用は一切ご遠慮願います」

「然るべく。契約書は追って作成しましょう」

「では、博士からいただいたこの参考文献と、おっしゃっていただいたご意向を元にラフを作成いたします。『愚者』については、もう一度ご要望をお聞かせいただけます?……書き留めますので、できるだけ手短に、ポイントを絞って」

「了解です。その前に、私からもひとつ条件を――」

「はい?」

「博士(Dr./ドクター)と呼ぶのは、やめていただきたい。私は博士号を得てはいませんし、医者でもありませんので」

「あ、すみません……皆さんがそう呼んでらっしゃるので……」

「私はあれは好かんのです。あとアーサーとも決して呼ばないでいただきたいのですが……ウェイトで結構。あなたはパメラで、いいですよね、私たちはともにこの仕事に取組むパートナーとして、たがいにきたんなく呼び合い、発言し合い、誠実でありましょう」

「――かしこまりました」(案外このおじさん、わるくはないのかも?)炭酸水がはじけ飛ぶように気持ちに澄み渡る清涼感をセーブしつつパメラは仕事人間として振る舞う。「依頼者のご要望に極力沿うのが私のやり方ですので、そう致しますわ、ウェイト博士……ではなく、ウェイト」

「では、本題にまいりましょうか、愚者のポイントですね……」肘掛け椅子の背に身体を預けて、宙を仰ぎ見ながらゆっくりとウェイトはことばをもらしはじめた。

 後日パメラのラフが提出され、微調整が加えられて最終的に下記に至るのでした。。

参考文献)The Pictorial Key To The Tarot Illustrated  Arthur Edward Waite 


続く